一人の大江健三郎ファンとして
Nikon Df : New Micro-Nikkor 55mm F3.5
既にもう小説を書かないと明言していたが、大江健三郎のいない世界を生きることになった。私は大江健三郎の小説のファンの一人だ。
小説、随筆、多数の著作があるが、入手困難な初期の長編一編を除き、小説は全て読んでいると思う。近年、出版年代順に再読したので、ほとんどの作品を複数回読んでいる。
何でこんな小説が書けるのだろうと驚嘆した作品がいくつもある。好きな作品をあげると長くなる。
これから多くの人が新たな読者になるという気が残念ながらあまりしない。地元の本屋では作品が置かれていなかったりもする。売れないのかもしれないが、それでも本屋か、と苦々しく思う。
手に取っても大抵の読者がどこかの作品で音を上げて、以後読まなくなるらしい。私も詩や海外古典からの引用が作品の主題と呼応しあうような展開を見せる作品には、自分の知力ではついていけないなと感じることもありながら、どうにか読んできた。日本の文学の頂点だと信じたので。
いずれ再び全作品を何度でも読み返します。
以下、熱愛する長編
何でこんなのが書けるんだろう。一番好き。
ずーんと来た。これも一番好き。
傑出した作品。呆気にとられて一番好き。
読後しばらく何もやる気がしなくなった。あまりの凄さに一番好き。
ぶっ飛んだ。とんでもない作品に出会えて一番好き。要するに一番好きがいくつもあるのだ。
紛う方なき名作。
晩年の作品群への扉を開く小説。
熱愛する短編
「鳩」という短編を読んだ時はこの人は本当に少年院に入っていたんじゃないかと疑った。「見るまえに跳べ」「下降生活者」何でそんな小説が書けるんだろう。
「狩猟で暮したわれらの先祖」たまらない。
短編連作という作品だが、中でも「四万年前のタチアオイ」「死に先だつ苦痛について」の二つの短編を特に愛している。
表題作、堪えられない。